ミュージカル封神演義を観てきた 閑話

〜常に追記します〜

本当に今はSNS時代で。
封神演義が連載している当時はこんなに簡単に世界中の情報が即時に手に入るような時代ではなかったので随分閉じられた世界で封神演義を楽しんでいたわけです。

私は先のブログ(まだ足りない)でも書いている通り、1幕の時点で本当に面白くなくて退屈さを感じるほどだったんで、これはきっと原作ファン(が今でも存在する時は覇窮封神演義の放送時に改めて知った)はみんな頭を抱えて「またか」てガッカリしていて、俳優さん達のファン達が現場を温めてくれてるんだ(ありがたい事だ)と、そういう温度感がバッサリ別れるものであったと思っていたのですが。

覇窮と同じようにエピソードがガリガリと削られていて、封神演義の魅力たる部分は失われてて、メディア化なんてやっぱり無理なんだ、という再確認になるだけの事だと本当に思ったんです、が。

好評の声が多くて本当にビックリしました。
「リスペクトを持って作られてるとこんなに面白くなる!」
「原作ファン大勝利!」
「アニメ化で心折れた人も期待して大丈夫!」

リスペクトはしてるだろうけれど結果は出せてない、原作ファンだけが辛酸を舐めただろうと思ってまだ最悪1回は観劇しなくてはならないと落ち込む私と真逆で本当に孤独を感じました。

私は本当に藤崎竜封神演義が大好きで、フジリューが描いた封神演義の面白かった部分は細かく話すと長くなり過ぎるので割愛しますけれども、最たるは「全てが繋がった物語である事」なんです。

どのエピソードも誰かの人生の時点で、太公望との出会いによって繋がって一つの大きなストーリーになっているのがたまらなく面白いというか。
これは伏線というのはちょっと違うような気がしていて、後の為に仄めかされているわけではなくて、ただその時点の事が語られてる+結果的に流れ続けた時間があるからそれもその時その時全員分は語れないから順番に説明されていく、みたいな手法だと思っていて。
(歴史の道標の時の、封神演義の背景にずっと描かれ続けていた「風化した巨大建造物」みたいなのが「伏線」だと思っています)

陳桐のエピソードで手に入れた火竜鏢が「武器を操るセンスがある」天化に渡り、武器を操るセンスがある天化だからvs魔家四将戦で「手にしたばかりの宝貝の鑚心釘」を使いこなして戦う(でも消耗は激しい!またピンチか?!みたいな緊張の展開)も、ここで語られる天化の「戦士としての強さへの危惧」が天化の最期にも説明つくというか…みたいな一つの取りこぼしも許されない綿密なエピソード群の集合!という感じでそれが魅力だったので。

武成王との出会いも王貴人も胡喜媚も薪売りも雷震子も二人の王太子も、その時のエピソードとして割愛出来ても、後で追って語ることはできるけどそこでそのエピソードが挿入されてしまうと説明の為に割く時間が長くなってセンテンスとして纏まりも時間経過によるエモーショナルも失われてしまうわけで…ただミュージカルで伯邑考サラッと流したの本当に上手だった、感動した。そう!そういう感じならば削られた名台詞や名シーンと対等!でも全編その流し方でやるならもうやらなくて良くない?てなってしまうほどサラッとやってくれてた。

やるならキッチリと原作の魅力を描いて欲しかった。
時間の制約があるのはわかってるし「人気キャラ」を出したいも理解できます。でもそれでも、それを許容出来るのと、それを許容して完成された作品を面白いと感じるのは全く別だと思ってる。

妲己っ♡喜媚のっ☆昼食!ばんざい!!はアニメでとても丁寧に作られていて「このエピソードは作りたいよね…」と、薪売りも陳桐も朝歌の薬屋を営んでいたおじさんのエピソードも削られて落ち込んでいた私の心を疲弊させました。つらたん。
でも「昼食!ばんざい!!」は作られるけど「押したり引いたりする必要がなくしかもオートマです」は削られる。どうしてなの…。

ミュージカル封神演義も、削られたエピソードが多くてしかもその削られてる箇所は20年経っても未だに色褪せない「封神演義の面白さ」の部分だったのでそれがガリガリ削られて穴あきのチーズみたいになっていて本当に見ていて「つまらない」と感じました。

私はあの大不評だった「覇窮 封神演義」も視聴していたのですが、あのアニメのダメだったところの主たる部分は「構成」でした。
なんていうか「作りたいエピソードから製作するし、出来上がったものから納品する」みたいなスタイルなのかと疑うほどのエピソードの「順番」の改変でしたね。
スパイの鄧蝉玉のエピソードをやっていないので玉鼎真人大活躍のvs孫天君の化血陣のエピソードは滑稽の極みって感じでしたね。本当に30分辛かった、何を見ているんだ?という気持ちになりましたね。
しかも鄧蝉玉はアニメには出ないのか、と気持ちの整理をつけようにもカメオ出演してくる鄧蝉玉。おまけに土行孫。金吒、木吒まで。
私が見逃してるだけでもしかして放送されてたのか?と疑うほどに構成が雑でめちゃくちゃな時系列でキャラクター毎のエピソードがどんどん消されて、それでいて都合に合わせてその時だけ絵としては描かれているせいで「あなたは誰なの?」という状態が最初から最後まで続くので覇窮封神演義は辛かったです。

ミュージカルでは綺麗にエピソードが削られているだけと言えば、それだけなのでまぁ覇窮のめちゃめちゃな構成よりはマシなのかも。いやでも二人の王太子が居ないことはもう無理じゃないですかね。方弼と方相が出てこないの、私には本当に「うわっこの封神演義つまんねー」て評する要素として十分だと思うんですけれども。
SNSで探したミュージカルの感想の中に「〇〇は出てこないので、〇〇のファンの人にはちょっと残念かな?」という感じのを見かけて、正直言って「その程度の認識」である事がショックでした。
その認識で封神演義を見てるならなんでも楽しいかもしれませんね。
その感想こそがファンを名乗っていても原作(フジリュー版)へのリスペクトはあんまり無いんだな、て思えてしまいました。

「哪吒を叩く殷氏」が物凄く納得できなくて不愉快であった、というブログを先に挙げているのですが、流石にこの「引っ叩く」追加は他の方も違和感をご指摘されていたようなのですが、
「息子を溺愛してて甘い殷氏が叩くのはおかしくないか?」というものでした。同じ原作を読んでいてもこんなに印象が違うのかとまた胸が苦しくなります。
殷氏は哪吒を深く愛していますが、親として甘いわけではありません。教育を与え、ダメな事にはダメと伝える。なにより感情のコントロールを失っていたとしてもコミュニーケーションを試みるしっかりとした「親」です。感じた違和感にも違いがあると知って本当に孤独な気持ちが加速します。

ミュージカルでの改変といえば、太公望妲己が仕掛けにくるシーンで妲己と喜媚の入れ替わりは「実際には起きていなかった」ことが私は本当重要だと思っていたんですが(太公望が馬鹿者になってしまうので)、ここを「うまく改変されていた!」と評する方もいて本当に驚きました。嘘だろって感じ。
あの改変によって太公望妲己の知略戦は失われてしまいました。もう殴った方が早いよ、知らんけど。

世間との感想の乖離が激し過ぎて私が観劇したミュージカル封神演義とは別のミュージカル封神演義がどこかでやってるんではないか?とも思うほどでした。

もう本当に私のブログやツイッタ〜で私が何をどう書こうが自由だと思うので言ってしまうのですが、ミュージカル絶賛してる人たちは「漫画読んだことある?」て感じです。