3rdテニミュ 四天宝寺(2018.12.20)を観てきた

東京の初日しか観ていないのでもう記憶も怪しいところですがテニミュ3rd四天宝寺公演への気持ちを纏めておこうと思います。

ダラダラどうでもいい話ばかりを書いてしまったので簡潔に3rdのことだけ先に纏めると

・2ndで卒業したキャストは二度と出ないと思ったしそうであって欲しかった

・2ndで演っていた役での彼が本当に好きだった。なんなら忍足謙也役で出てたら逆に最高にアガったかもしれない

・公演自体がそんなに面白くない。1回でガツっと掴まれるものは無かったからTSC更新せずに帰ってきた

・ていうかもうあんまり思い出せない、2回は観ないとダメだったかな?いや、1回で心掴んでよ、エンターテイメントのプロなんだから

以上です。

_ _ _ _テニミュ初めて物語もついでに書いておこうと思います_ _ _ _

私が初めてちゃんと観たテニミュ四天宝寺公演のBチームでした。「ちゃんと」というのは生で観劇したわけではなく、頭から終わりまでストーリーに即して公演を見た、という意味です。
それまでテニミュのイメージってニコニコ動画(β版)の空耳のイメージが強くて、DVDとか見せられてもいわゆる「空耳曲」を楽しんでました。カナダレモンとか。ドンダバデンデンヌケヌケドンとか。
キャッチーな歌だとバイバババイバイバイーキンーグホーンとかは知ってる、みたいな。

さておき、
ストーリーに即して見たんですけど、私この時点で原作のテニスの王子様四天宝寺戦のあたりが未読だったので「才気煥発の極み」とか「無我の境地」とかナニソレって感じでした。ナニソレ。
でも面白かったんです。
いやもう千歳の言ってることは一つも意味はわからないけど、一番普通の試合が展開されるS3とか…めっちゃ面白かった。
♪エクスタシーとかボソボソ始まる♪ゴーゴーフジのあたりとか普通に集中して見た。
不二くんの繰り出す「進化したトリプルカウンター」とか本当に全然意味がわからないけど切羽詰まる白石とかグングン追い詰めていく不二とか…
白石勝ったのに全然気持ちよく勝たせてくれない不二くんとか本当に面白かったな〜。
ボコボコにされるタカさんには、もうテニスやめて早く寿司屋の修行に入って欲しいと思ったな。あ、白菜の人だ!みたいなことを思いながら見ました。
♪君に誓おう〜いつでも精一杯、は本当に良い歌だ…テニミュキャストは須らくそうであってくれ。

まぁ日常生活の中で突然テニミュのDVD買って見るわけないので、誘われた2nd四天宝寺公演への予習みたいな所だったんです。初めてテニミュを生で観るし誘って頂いたのが嬉しかったので万全で臨む気概が有った、この頃は。

初めてテニミュを生で観た感想は今でも忘れないんですけど「あ、DVDとは違うんだな」です。

白石のエクスタシーは歌い難そうだし、なんかたくさんあちこちで動いてて観るのが忙しい、という感じでした。
手塚くんがカーテンコールでニコっと笑った時は、その昔生田斗真の舞台を観に行った時に生の生田斗真から放たれるキラメキが凄かったことを思い出しました。多和田秀弥(任益)は本当にキラっキラしていた…。

でも正直言ってこの時点ではDVDの方が見やすくて、特別にハマるわけでもなく普通に楽しんで帰宅しました。楽しかったのでブロマイドはチームセットで買った。

しかしながら、この後の凱旋公演で私の内なのか公演自体なのかナニカが変わってめちゃめちゃ楽しくなってしまって1回しか入る予定がなかったはずなのに当日券買ってて5.6回入ってた。当日にチケットが買えたところが大きい。

公演の曲が耳馴染みして曲単体に対して「楽しい!」と思えるようになって、幕間の日替わりやベンチワークも見るようになってまた楽しくなって何度見ても楽しかった。
中でも、碕理人氏の忍足謙也が好きでテニミュ卒業後も「推し俳優」として舞台に通ったりするようになりました。楽しかったな〜〜〜〜ぼんやり降りてしまったけど。

2nd四天宝寺公演は千秋楽幕間が語り継ぎたいような口を閉ざしたいような幕間でもう忘れたい。あれさえ無ければ…やっぱり忘れられない。
死ぬほど楽しく気持ちよく公演期間を過ごしたので本当に思い出としては美しいです。

行ける時、行きたい時に劇場に行ってチケットを買って観るって本当になんて健全で文化的な行為なんでしょうね。全ての観劇がそうなればいいのになー〜〜。

私の初めてのテニミュはこんな感じでした。
本当に楽しかった。
_ _ _ _ _
四天宝寺公演ってその前後が重たいというか、
前門の虎「リベンジに燃える氷帝公演」
後門の狼「リベンジに燃える立海公演」の間のいい意味での箸休め的な楽しい公演だと私は思っています。

だから3rdテニミュの公演が進んで行く中でいつも「きっと四天宝寺は楽しい」と思ってました。きっと好きになる。全然2ndの方が好きだったとしてもきっと3rdの四天宝寺公演も楽しいだろう、と思ってました。

最初に四天宝寺公演に不安を覚えたのはその直前の氷帝公演だったと思います。
これはもう完全にdisなんですが、3rd氷帝公演は本当にこれが完成品なのか?と思うくらい全然面白くなかったです。何が面白くないとかではなくて全然面白くなかった。 ヒヤリともしなければ熱も感じない。

センテンス毎に「こなされていく」というか、「やったよ、終わったよ」と感じました。面白くないじゃん?
あ、忍足侑士が歌が心配な感じで「歌の下手な忍足侑士」という点がちょっと楽しかったです。そういうのが個人的に響くツボなんです。
…他に何かありましたでしょうか。あ、比嘉が東京湾を船漕いでた。いやでもコレが面白かったって話なら比嘉公演のバイキングホーンで船が出てきた時の乗組員の立海もめちゃめちゃキャッチーで面白かった。
でもそこを公演の中で面白かった点に挙げるとか切ない話じゃないですか。

そういえば、この時は青学10代目の初めての公演でしたね。
菊丸先輩がキャラクターの中では一番好きなのですが、10代目の菊丸英二は凄い小さい菊丸先輩で私の中の菊丸英二像と余りに乖離していて大石と並んだり手塚と並んだりするともうポプテピピックのポプ子ちゃんサイズにしか見えなくてポプテピピ丸先輩が嫌で嫌で導線上にいる時に視界に入れないように視線をズラす始末でした。なんだもう本当に辛いな。
全国氷帝と言えばゴールデンペアの試合が最高にアツい試合なのでその公演で「菊丸先輩が小さい」とイライラしながら見るのは苦痛でした。見るたびに「小さい」と思ってしまうんです、隣にいつも大石がいるから。goodシーンなのに楽しめない。地獄かな。

全国氷帝は2ndが好きです。観やすい。
手塚の♪自問自答がとても好きなのですが3rdの手塚の自問自答シーンはなぜあんなにダルいシーンにしてしまったんですかね…「あの子」で表現してた2ndは上手かったなって思います。

全国氷帝って基本的に見て疲れるぐらい面白い公演だと思っていたので「もしかして私は3rd全国氷帝を観ていないのでは?」とさえ疑う、70%かと思っていたら40%か30%か、みたいな曖昧さ。
四天宝寺公演がつまらなかったらどうしよう、という不安のタネは有ったんですな。

_ _ _ _全然3rdの話が始まらない_ _ _ _

一番初めに3rd四天宝寺にケチがついて、そのままずっとソレが一番嫌だったというのが「渡邊オサム役 碕理人」です。
私は心の底から嫌でした。
もう本当に「どうして?」という気持ちが観た後も晴れませんでした。
何がそんなに嫌なのかと言われると2014年にドリライで卒業した筈で、その時「もう二度と彼はテニミュの板の上に立つことは無い。寂しいけれど、今までありがとう」という気持ちで卒業を祝ったり?惜しんだりしたのに。

解せぬとしか言いようがない。

私のテニミュの渡邊オサムの印象は前任の君沢ユウキ氏+2nd四天メンバーが千秋楽幕間で見せたソレそのものです。ほんと〜〜〜〜〜〜〜〜〜っに大嫌い。
その役を推していた俳優が演る。なんでよ。

解せぬとしか言いようがない。

あと、2ndの時の「四天宝寺だけ保護者がいる」のはなんかちょっとダサいなぁと思っていたのになんでそれを推していた俳優がわざわざ出戻って演るってことになったのか。

解せぬとしか言いようがない。

私は、当時の碕理人氏は忍足謙也を「かっこいい」と思って格好良く演じてくれていたと思っています。
俳優ご本人は緩いところ甘いところ有るという印象なんですが少なくとも忍足謙也を演じている際に忍足謙也が格好良いと思わせるように芝居をしてくれていたと思います。良い意味で役の時は格好をつけてくれていた。
「推していた」ということは現在は推していないので発言権は無いわけですがうるさい、嫌なものは嫌なんだ!碕氏じゃなくて安西氏か杉江氏にオサム役代わって貰いたかった。ずっと「嘘ぴょん」って言って欲しかった。本当に碕理人氏は一つも悪く無いけど嫌だった。

ずっと忍足謙也役でいて欲しかった。

まぁでも本当に心の底から嫌だったので絶対に東京の初日に入りたいと思えたのは良かった。入りたいというポジティブな気持ちは大事だと思う。

全然関係ない話するんですが、私は初日が好きです。
処女厨」に例えて笑って話してしまうのですが、過去に公演中に観客のレスポンスを受けて芝居が変化してしまって(それ自体はよくあることなんで舞台観劇の醍醐味なんですが)、一人の俳優が舞台のワンシーンを私物化しだして、板の上に役付きで立っているのに俳優本人として話し出す時間が延びていってしまったことがあって。そのシーンは劇場では観客からのレスポンスも良かったです。でも私と隣の席の友人がその俳優の様に怒りを覚えたのも事実です。
もうあんなもの二度と観たくありません。観客のレスポンスを受けて変わっていったシーンなので確実に見なくて済むのは初日だけなんだということでもあります。
それ以来、「稽古場で「これが完成形だ」と作り上げてきたものを観たい」という気持ちが強くなりました。
作り手が「これがおもしろい!完成した!」と一度は判断したものを見るのは大事だと思ってます。

_ _ _ _やっと初日の感想だよ!_ _ _ _
3rd四天宝寺の感想ですが、
「友達と観たからとても楽しかった」です。

私はクソミソにつまらない芝居を観ても「一緒に友達と観た時間」という点が楽しいなら基本的に楽しい思い出になる人間なので初日楽しかったです。
でもそれは「友人と芝居を鑑賞する」という文化的な行為がその日の「楽しい」の一番であって「芝居の内容」という点で言うとなんか特に面白いことは無かったかな、という感じです。
千歳が南米でサッカーをやっていそうな雰囲気の俳優さんだったことは覚えています。

橘vs千歳って、千歳が唯一四天宝寺に貢献している試合なので好きです。もしかして何度も何度も繰り返し観ていたら3rdでも好きになれたかもしれない。

青学vs四天宝寺で言うと
白石のエクスタシーが「残ってて良かったね」という気持ちですね。いつか刷新されてしまうだろうなとは思っていますが残ってたらそれはそれでやっぱり嬉しい。

四天宝寺公演のダブルス2ってテニミュ2.5次元だから持てる「実体」の魅力を最大限を見せることが出来る試合で本当に楽しいですね。小春っていつもデキる人が演るイメージあります。あの二人にだけ場を任せれば良いのに、と思いました。
時事ネタも織り込みやすいし可愛いな、て思いました。でも好きかっていうと2ndの方が好きだった。
私は杉江大志氏の一氏と福島海太氏の小春のペアのことを凄く好きだったんだなぁと今更思いました。

過去の公演では死んでこい河村って何度も何度も繰り返し言っていた気がしていた亜久津くんがあんまり死んでこいって言わなくなった気がします。時代かな。

ところで私はこの試合でタカさんが「何にも取り柄のない俺」「日本一のパワープレーヤーを目指すことに」の流れにいつも悲しくなります。
なんでそんなに傷ついてまでパワーで戦わなきゃならないのか。タカさんだってまだ1年生なんだからこれからの練習でテクニックとか培えたかもしれないじゃないの。同級生からの「タカさんと言えばパワーだよね」のせいだと思ってます。そんな簡単に方向性定めないで!若者の可能性は無限大だよ!
あんなに傷つくならパワープレーヤーなんて目指さないで欲しいしすぐにテニス部辞めてって私が母親なら泣いて縋るレベルです。タカさんはいつも傷付き過ぎる。
でもだからこそ、ここはいつも「やめてー!もうやめてー!」て血糊まみれのタカさんに臨場感を持って観ることができるので好きです。暗くなるしそこそこ疲れてきているので眠たくなることが多いのですがそれは許して欲しい。

忍足謙也の役割ってこんな感じだったけ?
こんな印象だったかなー???て感じ。

千歳って四天宝寺にとって本当に酷いヤツですよね。
テニスの上手い転校生だったことが四天宝寺にはプラスでもありマイナスでもあった。あの学校は学校として勝ちたくて頑張ってる学校だからプラスなんだろうけど、千歳はあまりにも勝利への渇望を無下にし過ぎる。
四天宝寺が勝つために、最後になるかもしれない試合を「お膳立てしておいた」の一言で千歳と代われる忍足謙也の勝利への渇望は自己犠牲とかではなく、より一層強く勝利を望んでいるから出来る冷静沈着ばってん情熱的なテニスしてるというか、勝利への戦略だと思ってるし思わせて貰った。
この辺り、碕理人氏の忍足謙也は格好良かったなぁ。

_ _ _ _追記だよ!_ _ _ _
嫌だったことを思い出したので書くのですが、私は碕氏演じる渡邊オサムに「若い」とただひたすらに思いました。中学生を演じていた頃の彼の印象があまりにも強かったのかもしれませんが若くて、なんていうか四天宝寺に「大人」がいる感じがとても薄かった。
でも別に中学生が1人多いと感じたというわけではなくて。
「大人」がいるというよりは「大人役」がそこに居る以上のものではなかったという感じでした。
本当に君沢氏のことは何一つ褒めたく無いのが心情なのですが、君沢氏の演じる渡邊オサムはあの板の上で圧倒的に「大人」でした。
碕氏が「大人」を演じられていないというわけでは決して無いと思うのですが、私には2nd君沢ユウキの圧倒的な大人感の方がどうせ保護者がついててダサいならその方が良かった…とは言いたく無いけど。悔しい。
_ _ _ _追記終わりだよ!_ _ _ _ _


これは個人的な趣味の話ですが、私は基本的に「演出されたエモーション」に興が醒めるタイプです。
カテコで、たまたま自分の席の導線上で背中を合わせあう忍足謙也と渡邊オサムが作り上げられてて、別にそれ自体にはなんの違和感も無いんですけど、今回の「かつて忍足謙也を演じていた、現在は渡邊オサムを演じる碕理人」と「現役の忍足謙也」でそういう演出をされると、目に入った瞬間は(私は安上がりなオンナなので)アガるんですが、後から少しずつ氷点下にまで醒めて冷え込むんですよね。
何も意味の無いところに「これはエモ!エモい!エモーショナル!!」と勝手に意味を見出してアガるのは気持ちいいのですが、「(こういうの好きでしょ?)お膳立てしといたで」とやられると本当に食べる前から胸焼けって感じ。

ふわふわ曲でど真ん中で踊っているかつて推していた俳優には勿論感動したんですが「なんでどうして 今(3rd)なのか」という気持ちも燻るわけです。
2ndの時に不満が有ったわけでは無いけど、それでも忍足謙也の碕理人でそこに立っているのと、今時分に渡邊オサムで立っているのとでは全然気持ちが違うよ!なんか嫌だ!!

記憶が曖昧なので本当に公演の内容思い出せないですけど、思い出せないことも一つの結果だと思いますし、
何よりもテニミュに対して「もういいか」と結論付けてしまった公演でした。何が悪かったって言えば2nd墓場掘り起こされたことが悪かった。でもこれが杉江大志氏か安西慎太郎氏だったら普通に観れたと思うので単純に私の災難でした。

普通に3rdの四天宝寺を真っ白な状態で迎えたかったな。そんなに贅沢な望みだったとは思わないけど。叶わなかった今となっては5年後に四天宝寺公演を観に行きたいと思ってるといいな、て感じです。

しんどいから4thがあって過去キャスト掘り起こすなら竜崎スミレ:KIMERUにして欲しい、そしたらまたテニミュ観に行きたいと思います。

エーステ秋冬観てきた

アプリゲームA3!の舞台版、通称エーステ秋冬を観てきました。
私自身はそこまでゲームをやり込んでいないので、この作品のようにチケットの入手が楽では無い、原作人気が既に高い舞台を観劇する機会があるのは、ここが一番というファンの方には多少「すまない」という気持ちになります。
それくらい、エーステは2.5次元化作品として完成度が高い。ごめん、めっちゃ楽しかった。超楽しかった!次も観たい、超観たい。

私の思う2.5作品での「完成度が高い」というのはメイクやウィッグなどのビジュアルの再現度やシナリオの原文採用率では無くて「原作を読んで得た感動を今ここでもう一度得られたか」に依るのですが、エーステはその辺が本当に素晴らしいと思います。おい聞いてるか刀ステ悲伝。

秋冬を観てきた話がなかなか始まらなくて申し訳ない

もう100000回くらいしてる話ですが春夏公演の時に劇中劇のロミジュリで「♪ふたーりーさがーしだすのさーー」と僕らの絆が入った時は本当に心も体も震えました。感動でゾクゾクした。2.5次元だった。
劇中劇自体はミュージカル(では決してないけど)調になってたのでうまく表現したなぁ、と感心ばかりだったのですが、ここでの僕らの絆のサビの入り方は2.5史に残した方がいい、語り継いでいきたい。
エーステはここ最近の2.5次元作品の中では最も「2.5次元作品」としての魅力があるような気がします。
チケット枯渇問題が解消するといいのになぁ。

さて、秋冬の話なのですが
秋組、上手かったね。
芝居ができる、歌える…春夏組を「僕たち舞台俳優いちねんせい!」と表現するにしても秋組みんな上手いなって思いました。

秋組シナリオはキャラクター性故にステレオタイプ「実は良い奴なワルは良い」みたいな…ある意味万人受けというか、バッドボーイズポートレイト自体が本当に面白い。
秋組のメンバーって基本的に「素直な良い子」キャラクター性を持ってないので、こういう不良少年の「良い子」なところを見せるシナリオはスイカに塩振って甘いみたいなものだからめちゃめちゃ面白い。本当に面白い。
太一は別に不良少年ではないけど「愛されたい」という欲求は絶対に自分一人だけで叶える事が出来ないから純粋な欲求であればあるほど業が深いよね、カルマ背負ってるな高校生。
ヨーヨーのエピソードが削られたのは天馬が出てないせいなのでしょうか。でも天馬でやるべきエピだから仕方ない、て落とし所になる気もする。観たかったけどね、赤澤氏で。

♪質素倹約節制の歌は、♪早起きは三文の徳さんダヨーが好きな私には堪りませんでした。推しが面白い歌を歌ってる!アガりました。
古市左京さんのポートレイトがミュージカル調だったとは知りませんでした。2.5で知る左京さんのポートレイト、「自分の武器(魅力)を活かした演出してる!さすが左京さん!!」と凄く2.5次元である意味を持っていて感動しました。

そういえば春夏のように明らかに「千秋楽で起きた事件」にすることが出来ないのが秋組なので千秋楽芝居(語弊がある)が無さそうなのは良かったです。
千秋楽だけ「ズタズタにされた幸ちゃんの衣装について謝罪する」とか出来ないもんね。
秋組の公演中のエピソードで小道具の拳銃を忘れた(んだったっけ?抜かれてたんだっけ?)十座が手で拳銃を模す、というのが物凄く好きだったんですが削られてしまっていとちょっと寂しかったです。
私は演劇は舞台上に何も無くても「はーーー波が高い〜」てセリフ一つ言ったらそこは海、みたいなのが好きなので十座が手で拳銃を作って対処するのも客へ「銃だ」と思わせればそれは銃なので十座の演劇的な表現の成長を見ることができる気がして超好きなエピソードです。無かったけど。

いなせの膝から下が凄く細くてゴボウみたいだなって思いました。

七尾太一が凄く芝居が上手かった気がします。
ゲームの七尾太一から違和感なく3.0次元に居るから2.5次元みたいな。
「愛されたかった」の話はエピソードが削られてるせいで薄いといえば薄いんだけど、悲痛で観てて悲しい気持ちになる。
「七尾太一 泣ける」しか言えなくてごめん。
でも本当に泣けた、良かった、凄い上手かった、愛さずに居れない!愛せる!

ついでに私はサイレントで泣いてるから許して欲しい。
啜り泣き警察を名乗っておりますが、エーステ秋もそこそこ啜り泣き多かった。
凱旋の千秋楽はWOWOWで視聴出来るそうなので泣いてますアピールしたいどブスはWOWOW視聴をお勧めします。

春組のメンバーと夏組のメンバーの挿入の程度も公演時間に合ってる気がしました。モブが輝いてる。

そういえばエーステにおける「監督」の演出って偶に寒々しいけれど、ゲームをやった事があれば挿入具合が丁度いいというか絶妙に感じます。
「監督=観客の私自身」感はクドくなくて(語りかけられる導線上に常に座っていたら違うかもしれないけれど)、
劇場にいる分には寒さも本当に少ない。
存在がちゃんとあって(無かったことにされていない)それを憎からず観ることが出来ている、という意味でこの演出がわりと好きです。
LVやWOWOWで見たらもう少し醒めてしまうかもしれないけれど。

秋組の感想は秋組のメンバーが上手かったので「泣ける」とか「良かった」「上手かった」「画が良い」みたいな語彙力のカケラもない感じになってしまいます。でも凄い面白かった。1幕が降りた時点で乾涸びそうでした。

冬組の話なのですが、
私、冬組のストーリーを読まずに観劇に挑むことになりました…ランクが54なのです。
粗筋は…紬と丞が幼馴染で、喧嘩して仲直りする、みたいなことは知ってたんです!天使を憐れむ歌はゲーム内公演で読んでいたし。

冬組はキャスティングが発表された時点まで戻るんですけど、それまでエーステってわりと「あ、その人が演るの?!」みたいな絶妙なキャスティングだった気がするんです。
知らない人より知ってる人の方が多いだろうけど爆発的人気俳優ではない、みたいな。かといって話題性とか直近の出演舞台が人気作って俳優さんもいて…絶妙な采配だなーって思ってました。

そこに冬組のあのキャスティング。
もう素直にいっちゃうと山姥切国広おるやん、て感じでした。うわっチケット取れるのかなー?ヤダナーみたいな。
私、冬組は思い入れが一欠片も無くて本当に申し訳ないと思ってるところにこの人気俳優の登用は本当に「oh…my goodness」て感じでした。

友人が最近ご執心の俳優さんが出演されることになったのでエーステという楽しい作品を観てもらえる機会が生まれたのは大変嬉しかったです。
悲喜交々、愛憎相半ばエーステ。

観てきた話をすると荒牧氏の紬、よく知らない私では所々で「山姥切国広みたい(な芝居)だな」て思いました。
紬も溌剌としたキャラクターではない為かもしれないですが、これは荒牧氏の表現の技法なんだろうなって共通性を観て感じたという話です。

北園氏は脚が長くて登場してくるとつい足の先から股に向かって舐めるように見上げてしまいました。長いんだもの。
丞の表情が2パターンくらいしか無い表現はゲームまんまって感じで私は好きです。表情は差分って感じ。
あと私が見た日は喉強かった。

観てすぐに書かなかったのでだいぶ細かいところ忘れてしまったんですが、冬組のストーリーって芝居に関係ないところでの諍いが湿っぽくてそれが冬組の情緒なのかな、て思いました。メンバー同士秘密が多い儘で終わる、みたいな。

あとこれは個人的な気持ちなんですけど、誉は何も悪くないよね?みんなの気持ちを整理して代弁して共有してくれて…デキる男じゃん!と思いました。あれはダメなの?あの時のつむつむの「言っていいことと悪いことがある」が私にもさっぱりわからなくて有栖川誉何も悪くないのに、てまだ腑に落ちてません。

GOD座の芝居を観ることが出来たこと、ありがとうエーステ、ありがとう2.5次元って感じでした。
こういうの2.5次元で実体を持ってる意味があって好きです。
そして紬がGOD座に落ちた話「受けるところを間違えた」としか言いようがありませんでした。
紬の芝居のテイストってこういう感じじゃないでしょ?みたいな。観たこともない紬の芝居なのに既に説得力が凄い。そしてここでNo.1の俳優だった丞…わからない。

天使も憐れむ歌、「医者ヒデーーー」感が体感できて良かったです。ゲームだとテキストだものね。ヒデェ奴だよあの医者は…。

冬組読んでないけどアプリが2部続いてるんだからマンカイカンパニーが勝つんでしょ、という展開だけはお察ししていたのですがあんなにテイストの違う芝居見て劇団付きのファンから得票が出来るってマンカイカンパニー冬組も凄いけど客の民度も高い、さすがGOD座…とか書いてる途中で丞のファン票だったらめちゃめちゃ泣けてしまうなと思ってしまいました。

勝敗が決した後の左京さんの「おい、明細書もだ」みたいなところが凄く良かった。グッとキタ。

あとはレビューとか凄い楽しいなー最後まで楽しいなーエーステ〜〜て感じで語彙がない。本当に語彙がない。
あのメインテーマ聞くたびに物凄くテーマパークのアトラクションみたいだなって思います。ワクワクする、キラキラと輝いてる、キャラクターがそこに居て笑っている。2.5次元作品の魅力を最後まで伝えてくれるのがエーステ、物凄く高揚感を得られて観劇が楽しいです。

観ることが出来て本当に良かった。

チケットを取るのが本当に難しい作品とは思うんですが、現在の2.5次元舞台群雄割拠のこの時代で2.5次元作品を観たことがある人には一度は体験してほしい作品のNo.1は今エーステが担っていると思います。

春単独行きてぇなぁ!

ミュージカル封神演義を観てきた 閑話

〜常に追記します〜

本当に今はSNS時代で。
封神演義が連載している当時はこんなに簡単に世界中の情報が即時に手に入るような時代ではなかったので随分閉じられた世界で封神演義を楽しんでいたわけです。

私は先のブログ(まだ足りない)でも書いている通り、1幕の時点で本当に面白くなくて退屈さを感じるほどだったんで、これはきっと原作ファン(が今でも存在する時は覇窮封神演義の放送時に改めて知った)はみんな頭を抱えて「またか」てガッカリしていて、俳優さん達のファン達が現場を温めてくれてるんだ(ありがたい事だ)と、そういう温度感がバッサリ別れるものであったと思っていたのですが。

覇窮と同じようにエピソードがガリガリと削られていて、封神演義の魅力たる部分は失われてて、メディア化なんてやっぱり無理なんだ、という再確認になるだけの事だと本当に思ったんです、が。

好評の声が多くて本当にビックリしました。
「リスペクトを持って作られてるとこんなに面白くなる!」
「原作ファン大勝利!」
「アニメ化で心折れた人も期待して大丈夫!」

リスペクトはしてるだろうけれど結果は出せてない、原作ファンだけが辛酸を舐めただろうと思ってまだ最悪1回は観劇しなくてはならないと落ち込む私と真逆で本当に孤独を感じました。

私は本当に藤崎竜封神演義が大好きで、フジリューが描いた封神演義の面白かった部分は細かく話すと長くなり過ぎるので割愛しますけれども、最たるは「全てが繋がった物語である事」なんです。

どのエピソードも誰かの人生の時点で、太公望との出会いによって繋がって一つの大きなストーリーになっているのがたまらなく面白いというか。
これは伏線というのはちょっと違うような気がしていて、後の為に仄めかされているわけではなくて、ただその時点の事が語られてる+結果的に流れ続けた時間があるからそれもその時その時全員分は語れないから順番に説明されていく、みたいな手法だと思っていて。
(歴史の道標の時の、封神演義の背景にずっと描かれ続けていた「風化した巨大建造物」みたいなのが「伏線」だと思っています)

陳桐のエピソードで手に入れた火竜鏢が「武器を操るセンスがある」天化に渡り、武器を操るセンスがある天化だからvs魔家四将戦で「手にしたばかりの宝貝の鑚心釘」を使いこなして戦う(でも消耗は激しい!またピンチか?!みたいな緊張の展開)も、ここで語られる天化の「戦士としての強さへの危惧」が天化の最期にも説明つくというか…みたいな一つの取りこぼしも許されない綿密なエピソード群の集合!という感じでそれが魅力だったので。

武成王との出会いも王貴人も胡喜媚も薪売りも雷震子も二人の王太子も、その時のエピソードとして割愛出来ても、後で追って語ることはできるけどそこでそのエピソードが挿入されてしまうと説明の為に割く時間が長くなってセンテンスとして纏まりも時間経過によるエモーショナルも失われてしまうわけで…ただミュージカルで伯邑考サラッと流したの本当に上手だった、感動した。そう!そういう感じならば削られた名台詞や名シーンと対等!でも全編その流し方でやるならもうやらなくて良くない?てなってしまうほどサラッとやってくれてた。

やるならキッチリと原作の魅力を描いて欲しかった。
時間の制約があるのはわかってるし「人気キャラ」を出したいも理解できます。でもそれでも、それを許容出来るのと、それを許容して完成された作品を面白いと感じるのは全く別だと思ってる。

妲己っ♡喜媚のっ☆昼食!ばんざい!!はアニメでとても丁寧に作られていて「このエピソードは作りたいよね…」と、薪売りも陳桐も朝歌の薬屋を営んでいたおじさんのエピソードも削られて落ち込んでいた私の心を疲弊させました。つらたん。
でも「昼食!ばんざい!!」は作られるけど「押したり引いたりする必要がなくしかもオートマです」は削られる。どうしてなの…。

ミュージカル封神演義も、削られたエピソードが多くてしかもその削られてる箇所は20年経っても未だに色褪せない「封神演義の面白さ」の部分だったのでそれがガリガリ削られて穴あきのチーズみたいになっていて本当に見ていて「つまらない」と感じました。

私はあの大不評だった「覇窮 封神演義」も視聴していたのですが、あのアニメのダメだったところの主たる部分は「構成」でした。
なんていうか「作りたいエピソードから製作するし、出来上がったものから納品する」みたいなスタイルなのかと疑うほどのエピソードの「順番」の改変でしたね。
スパイの鄧蝉玉のエピソードをやっていないので玉鼎真人大活躍のvs孫天君の化血陣のエピソードは滑稽の極みって感じでしたね。本当に30分辛かった、何を見ているんだ?という気持ちになりましたね。
しかも鄧蝉玉はアニメには出ないのか、と気持ちの整理をつけようにもカメオ出演してくる鄧蝉玉。おまけに土行孫。金吒、木吒まで。
私が見逃してるだけでもしかして放送されてたのか?と疑うほどに構成が雑でめちゃくちゃな時系列でキャラクター毎のエピソードがどんどん消されて、それでいて都合に合わせてその時だけ絵としては描かれているせいで「あなたは誰なの?」という状態が最初から最後まで続くので覇窮封神演義は辛かったです。

ミュージカルでは綺麗にエピソードが削られているだけと言えば、それだけなのでまぁ覇窮のめちゃめちゃな構成よりはマシなのかも。いやでも二人の王太子が居ないことはもう無理じゃないですかね。方弼と方相が出てこないの、私には本当に「うわっこの封神演義つまんねー」て評する要素として十分だと思うんですけれども。
SNSで探したミュージカルの感想の中に「〇〇は出てこないので、〇〇のファンの人にはちょっと残念かな?」という感じのを見かけて、正直言って「その程度の認識」である事がショックでした。
その認識で封神演義を見てるならなんでも楽しいかもしれませんね。
その感想こそがファンを名乗っていても原作(フジリュー版)へのリスペクトはあんまり無いんだな、て思えてしまいました。

「哪吒を叩く殷氏」が物凄く納得できなくて不愉快であった、というブログを先に挙げているのですが、流石にこの「引っ叩く」追加は他の方も違和感をご指摘されていたようなのですが、
「息子を溺愛してて甘い殷氏が叩くのはおかしくないか?」というものでした。同じ原作を読んでいてもこんなに印象が違うのかとまた胸が苦しくなります。
殷氏は哪吒を深く愛していますが、親として甘いわけではありません。教育を与え、ダメな事にはダメと伝える。なにより感情のコントロールを失っていたとしてもコミュニーケーションを試みるしっかりとした「親」です。感じた違和感にも違いがあると知って本当に孤独な気持ちが加速します。

ミュージカルでの改変といえば、太公望妲己が仕掛けにくるシーンで妲己と喜媚の入れ替わりは「実際には起きていなかった」ことが私は本当重要だと思っていたんですが(太公望が馬鹿者になってしまうので)、ここを「うまく改変されていた!」と評する方もいて本当に驚きました。嘘だろって感じ。
あの改変によって太公望妲己の知略戦は失われてしまいました。もう殴った方が早いよ、知らんけど。

世間との感想の乖離が激し過ぎて私が観劇したミュージカル封神演義とは別のミュージカル封神演義がどこかでやってるんではないか?とも思うほどでした。

もう本当に私のブログやツイッタ〜で私が何をどう書こうが自由だと思うので言ってしまうのですが、ミュージカル絶賛してる人たちは「漫画読んだことある?」て感じです。

ミュージカル封神演義を観てきました〜哪吒のエピソード篇〜

まだ言いたいことがあるのか、って感じですけど悲しいかなまだまだある。
「楽しめないのは楽しむ才能がない」と他人にも自分にも思ってはいるのですが、 才能が無いことは悪いことではないので努力でカバーしたいところです。出来なかったけど。

掲題のここから感想を書いていく哪吒のエピソードのセンテンスはミュージカル 封神演義の中で最も原作漫画をテンポよく纏めていて、とても観やすく構成されていたと思います。テンポがとにかく良い。 削られてしまったところは言いたくないですが「仕方ない」で済ませられるところとして適切な判断だったと思います。

「瀬戸くんは2巻を読み直せ」「殷氏研究しなおせ」と名前付きでSNSで叫んだのですが 瀬戸くんにこの想いは届かないと思うので取り敢えず書いて気持ち整理しておこうと思います。
何度考えても「どうしてそうなったんだよ」と思ったので改めてミュージカル封神演義を哪吒のエピソードを中心に感想を書きます。

太公望は蠆盆事件を経た結果「仲間を集めなくては」目標を新たに設定します。 ストーリーが「仲間集め」にシフトしてから一番最初に出会うのが哪吒です。

仲間を探しているようなそうでもないような雰囲気で釣りに興じる太公望に、どう見ても胡散臭いおじさんの風貌の李靖が走って迫って助けを求めてきます。
「息子に殺される」と叫びながら。穏やかではありません。
哪吒と李靖の追いかけっこに巻き込まれた太公望は宙を飛び追ってくる哪吒が「普通の子供」ではないことに気が付きます。 宝貝は禁城に潜入し妲己と対峙した際に「ひとつでも大量のエネルギーを吸い取る」と紹介されていますが哪吒は宝貝を3つもつけて平気な顔をしている状態です。 さらに李靖も「普通のニンゲン」ではないことを見抜きます。李靖は仙人界で修行した経験があるんです。 李靖の哪吒からの逃走劇を助力することになった 太公望は陳塘関という関所に到着します (李靖は陳塘関で一番偉い将軍です)。 陳塘関に着くと元気のいい女性が太公望を迎えます。哪吒の母親で李靖の妻の殷氏です。 穏やかではない追いかけっこから始まり、おかしな親子関係に太公望は巻き込まていく、それが哪吒のエピソードですね。

ここからミュージカルの話を含めていきます。 李靖を演じているのはアンサンブルの方でした。兼ね役が多いのは先のブログにも書いた通り、吉谷さんの演出の常套ですね。キャスティングが発表されなかったキャラクターの登場は嬉しいです。
殷氏を演じているのは紂王と兼ね役で瀬戸祐介さんです。

この哪吒のエピソード、ミュージカルでのシナリオ・構成は原作のエピソードから乖離しているわけではないのですが、本当に2.5d化のダメなところがMAXで詰まっていたセンテンスでした。
原作漫画から乖離してないのに崩壊はしている。最も悲劇的ではないでしょうか。

さて「何がそんなに気に入らないのか」という話ですが、瀬戸君は「殷氏」というキャラクターを再現して演じられていらっしゃいません。 彼は「紂王ではないか?」というメタな紹介とともに登場します。 それは良いんです。兼ね役は舞台作品の醍醐味の一つですし、俳優さんたちの演技の多様性を観ることが出来るのは観劇という行為の中で楽しみの主たる部分ではないでしょうか。 特に「漫画のキャラクター」というこの世に実在することの無い(実在するヒト・モノから模倣をすることができない)存在を演じることは2.5次元作品の中では醍醐味中の醍醐味だと思います。

ありのまま起こった、目の前で展開された事を書くつもりなんですけど、不愉快指数が高過ぎたのでdisのようになるかもしれません。許して。

哪吒の誕生についてですが、殷氏は妊娠3年6か月(マンガとしてもまともな妊娠期間ではありません)の末、哪吒を出産します。 「残念ながらお腹の子はただの肉の塊だ」の台詞の通り、お腹の中の子供は既に死んでいることが示唆されています。 ミュージカルでは哪吒(肉の塊)誕生時の「珠のような子供」と青ざめながらのギャグシーンはありませんでした。 このシーン、マンガでも一コマでサラッとしてますが、ビジュアル的にはグロテスクなのにギャグ飛ばしてる余裕があるっていうシュールさが面白くて私は好きなんですけど、ミュージカルには採用してもらえませんでしたね。悲しかった…。 肉の塊としてショッキングな姿で誕生した息子を優しい妻に見せるわけにはいかない、と李靖は肉の塊に刃を立てます。 すると宝貝を3つも付けた状態です肉の塊を破って男の子が生まれます。生まれるというかシーン的には肉を破って出てくるというか。

ミュージカルではこのあたり、非常によく展開を纏めていてテンポよく進んだと思います。 ミュージカルとしての完成度高いと思いますし、説明的になり過ぎてなくて本当に観やすく理解しやすくと最高の構成でした。 ただ死ぬほど不快指数が高かったのはこのナタク誕生のきっかけとなる殷氏の夢のシーンです。

殷氏のお腹の中の子供は肉の塊です。 既に死んでいるのではと殷氏も不安に思っています。 ここで超自然現象アイテム宝貝の出番です。 仙人界の中でも最高傑作と名高い、女性の胎に宿すことで生まれながらの仙人(道士)を生み出すことができる宝貝、霊珠。 製作者は舞台の冒頭から登場している太乙真人です。 太乙真人は太公望と同じく原始天尊の弟子なのでコミカルなキャラクター性だけでなく、凄い(偉い)仙人の1人なんですね。そういうところも太乙の魅力の一つですね。 仙人や道士はいわゆる普通のニンゲンにとって「浮世離れた神秘性、自然と尊敬される存在である」という点は世界観設定の一つとしてご理解頂きたいです。そういうものなんです。どう見ても少年の(弱そうな)太公望も「仙人様」と頼られますしね。

原作では肉の塊を胎に抱え眠る殷氏はある夜、夢を見ます。 夢の中で仙人は「残念ながらお腹の子はただの肉の塊だ」と告げます。 狼狽える殷氏の胎に霊珠が押し込まれたところで、殷氏は目覚め、陣痛が起きます。 原作だとこの殷氏の夢に現れた仙人の正体は説明されてません、太乙も未登場ですし。 ですがミュージカルでは既に太乙真人は登場済みですし、仙人界の最高傑作の霊珠の製作者としても紹介されています。これは別にいいんです。前後するのは理解できます。理解は出来ても残念な気持ちが変わるわけではありません。後々のストーリーやシーンでのインパクト欠けはやはり残念に思ってしまうんです。 もちろん登場キャラクターに制限がある以上、ここはご都合主義的に「そうだったんだ~」で十分なシーンなので概ね間違っていません。セオリードオリーって感じ。

問題なのはこの時の瀬戸くん演じる殷氏が本当に全く「殷氏」を演じていないのです。 「演じていない」と評しているのは「キャラクターの再現性」の話です。

夢に現れた太乙真人に対してなぜか殷氏は暴言を吐きました。しかも見た目dis。 この時、なんでいきなり殷氏が太乙に向かって暴言を吐くのでしょうか。私にはわかりません、ただあまりにもショッキングな改変でした。

女性の寝室に入る男性は確かに非常に無礼かもしれませんが、なぜそこがいきなりフィーチャーされたのかちっとも解せません。いやでも安納務版の漫画の原作の方でめっちゃ怒ってたからそっちを採用したのかも…そうなの?ならそうだといって欲しいけどそれでも私の初日の衝撃と悲しみは拭えません。

殷氏にとって「残念ながらお腹の子はただの肉の塊だ」があまりにショックだったとしても、 夢に現れた「仙人」に対して汚い言葉を放つ殷氏は理解に苦しみます。

殷氏というキャラクターは女性キャラクターが多い封神演義の中で彼女に特出するパブリックイメージは「母親・母性」でしょう。 加えて「テンションが高めの元気で明るい女性」。 この「テンション高めの元気で明るい女性」としてのイメージを強調してキャラクターを作り上げたのかもしれません。 瀬戸君の中の「元気な女性」像が心配になります。
瀬戸君の殷氏は先述の暴言だけでなく、太乙真人に殴る蹴るの暴行を加えます。 そんなことをする必要があったのでしょうか。 何度でも言いますが解せません。

ただ、このシーンはこのミュージカルにおいて「コメディ」のシーンなんですよね。笑うところです。 客席からは奔放な瀬戸君の殷氏に笑いが起きます。そういうシーンなんです。楽しめなかったのは私が悪いんです。 ですが、「殷氏は暴言・暴力を伴ったキャラクターとして表現された」という目の前に突き付けられた事実に私は激しく動揺してしまいました。楽しめるわけがありません。悲しかったです。 ミュージカルにおいて殷氏は「慈愛に満ち、息子(哪吒)を愛する母親」として表現されるよりも先にこのシーンが見せ場になるんです。

「紂王を演じている俳優さんが女性役も演じている」というメタな視点で楽しむべきシーンなんだとはわかります。 それでも私はショックで本当に悲しくて瀬戸君による殷氏を1㎜も楽しめませんでした。演技を信頼することも出来ませんでした(紂王は最高だったのに)。 楽しんだ人が正しいので楽しかった方々には気にせず引き続き瀬戸くんのこの殷氏を楽しんで頂きたいです。

原作がある作品では「原作リスペクト」の気持ちを忘れて欲しくはありませんが、原文儘がそのまま最高の2.5d作品になるとは思っていません。 儘やってくれ、なんて言ってるわけではないんです。 ミュージカルならではの味付けは大歓迎ですし、むしろ楽しみして観劇に臨みました。 でもこのシーンは完全に原作をオミットしていましたしリスペクトも一切感じませんでした。

感想って反芻して日が経つとどうしても煮詰まってしまいますし、「もしかして初日だけのお遊びかもしれない」「初日だからより強く瀬戸君が演じていることを説明したかったのかもしれない」と思い、 もう一度劇場に向かうことも考えたのですが、もう本当に二度と観たくないという気持ちが勝ってしまいました。私は弱い人間です。

哪吒の宝貝の話なのですが、哪吒のつけている宝貝の一つは空中を飛行可能な風火輪というアイテムです。 宙を飛んで哪吒は追ってくるんです。しかもこの宝貝ホバリングも可能なので、哪吒はずっと「宙に浮いているキャラクター」なんですね。3次元での再現度が難しところですな。
でも、演劇なんて言うのは観客の力も借りるものなので、「飛んで追ってくるーーー」とセリフ一つ入れば 舞台上に足が着いていても、空を飛んでるように観客には観えるものなんです。それで十分だったんです。

哪吒の風火輪のビジュアルは一言で言うと二つの輪です。輪に両足を載せている状態です。 ミュージカルではセグウェイの片足版(そういうものがあるかわかりませんがそうとしか言えない形状)のものに乗っていました。 これ、ものすごくビジュアル面での再現度が高くて感動でした。 でもこの感動は逆に光の速さで気持ちをどん底に沈めていきました。

物凄く動きが遅いんです。
機械としては限界速度なのかもしれませんが本当に遅い。

この時、哪吒って李靖を凄いスピードで空飛んで追っているんです。 その哪吒が普通に走った方が速いようなスピードで宝貝に乗っているともう本当に見た目の再現度が物凄く高い為により滑稽で、臨場感がゼロで泣きそうになりました。いえ、むしろ逆に干からびてしまいそうでした。泣けねぇ。 ビジュアルの再現に極振りした結果、コノザマって感じで2.5次元舞台って本当に難しいですね。

私は「生身の人間がやっているんだから仕方ない」そんな土俵の話がしたいのではありません。 私がこのミュージカルでつまらなかった部分は「生身の人間が再現できないから」という部分では無いんです、「その表現を採用するのは解せない」という話なんです。 ビジュアルを再現できないならセリフでも解決できることだってあるじゃないですか。 生身の人間が目の前で演じるこことによって漫画を読んでいた時には得られなかった「体感」が 生まれることが2.5次元作品の魅力の一つではないでしょうか。 そういう意味でこのシーン「哪吒が李靖を追っている」という状況の体感の臨場感がゼロだったので、漫画を読んでいた時に感じた、新しい物語の慌ただしい始まりに高まる緊張感が全く得られなかったんです。 だからこそ、ミュージカル封神演義で見る必要のないシーンに挙げます。ここを許容するならもう目を瞑って見ていても同じだと思います。

哪吒のエピソードは李靖の酷い行為が暴かれていくことで集約していきます。ヒデェ父親。

殷氏のセリフの中で彼女の母性を象徴するセリフが二つあると思います。 「子供の罪は親の罪」「この人を失ってもあなたを失っても私は悲しいわ」 でもこれどちらのセリフもさっきめちゃめちゃ暴言を吐いて暴行してた殷氏が言ってもちっとも感動出来ないよ。 前のシーン引きづり過ぎとか言われるとほんの30分前のシーンに引きづり過ぎもあるかボケ、当然の残像だよ。

哪吒は本当に無垢な幼い子供です。哪吒の成長(学習)は相手にそのまま返っていると思います。 愛情を注いでくれた殷氏には愛情を返し、疑いを掛ける李靖には疑いを返す。 子供なので短絡的なところがあり、水棲霊獣王の怒りに哪吒の死を以て償う形をとります。かなしいことですが、結果を見れば哪吒の死は功を奏し、陳塘関と両親は守られました。 ミュージカルでもここはそんなに茶化さずにやっていたような気がするんですが、水棲霊獣王の第三子を演じる女性のアンサンブルさんのお可愛らしい声から放たれる荒げた関西弁に客席がクスッとなってしまうのが「ゲラ警察」の私には辛かったですね。まぁそれは勝手にやってるから良いんだけど。

二度と観たくないシーンをもう一つ挙げるんですが、 ミュージカル封神演義では殷氏が哪吒を「引っ叩く」という行為が追加されていました。 ちょっと衝撃的で私には本当に何一つ理解できませんでした。 *「なぜ殷氏は哪吒を叩いたのか」

原作では哪吒へ悲しそうな顔をしながらまっすぐと見て語り、諭すシーンです。 殷氏は「(息子は)話せばわかる」を貫き通しているのです。 いやもう、墓を暴いて埋葬されていた哪吒の本体を川に捨てるような父親を許せない哪吒の気持ちの方がよほど理解に容易いところですが、 それでも父親を憎み切れない、しかしやっぱり感情は収まらないと、子供らしく感情のコントロールを失い、それを取り戻させるのが母親たる殷氏の「やめなさい」という「言葉」なのです。

な~~~~~~んで叩いてしまったのかな~~~~~~本当にがっかりしました。

もしかして殷氏の感情の昂ぶりを表現していたのでしょうか。でもそれで子供を叩くの? 殷氏は哪吒をこの一発のビンタで叱りつけたのでしょうか。哪吒が母親に叩かれるほど酷いことをしたでしょうか。 ミュージカル封神演義という作品で追加されたこの「殷氏が哪吒を叩く」という行為が何を表現したかったのか、私には全く理解できませんし、怒りを覚えるほどです。

千秋楽では瀬戸くんには是非、「話してわからせる」を採用して貰いたいものです。

さて、哪吒のエピソードは殷氏の説得により終着します。しかし哪吒の悩みは解決しません「両親にとって自分はナニモノなのか」。 フジリュー版において、この悩みに太公望は「エディプス・コンプレックス」を説きます。 封神演義の面白さを語る上で欠かせないでしょう、「エディプス・コンプレックスについて語る太公望」。 ミュージカルにはこの一連のシーン単語は有りません、サクッとカットです。太公望はエディプスコンプレックスとして仙人界で学んでいないかもしれません。 このシーンはそのまま太乙真人の初登場シーンになるのですがミュージカルではもう既に登場も説明も済んでいるので丸ごと無かっ、、、、九竜神火罩は使いました。 ここはなぜかビジュアルの再現性に拘らなかったようで、あらけんの(もうあらけんって言っちゃう) 九竜神火罩は両肩に載せてるのですが、発動しても衣装に九竜神火罩付いてたままでした。 わかる、わかってる。そういう衣装だから仕方ないって。外れないって。 「九竜神火罩ーー!」て発動してるけど、九竜神火罩肩に載ったままですよ、ってのは無粋だってわかってます。 それでも、なんかこう、どうしようもないことは分かっていてもガッカリでした、 「風火輪はめちゃめちゃ再現に拘ってたのにここは拘らないのか」という残念な思いがどうしても湧いてきてしまって。 ミュージカル封神演義が大事にしようとしているものの温度感が理解できなかったです

哪吒のエピソードはこんな感じだったような気がします。 瀬戸くんの殷氏とか哪吒の風火輪遅いとか、嫌だった所ばかり覚えていて色々記憶違いしてるかもしれません。そうであってくれ。

瀬戸君の殷氏や風火輪に不満があるのでつい批判的なことを多く書いてしまったような気がします。

何度も書きますが、哪吒のエピソードは原作をうまくミュージカル化したセンテンスでした。何でしょうかこの二律背反。 ミュージカルとしては「テンポよくて良いね」というシーンなのに「2.5d作品としては全然全く良くないね」て。 テンポが良くて上手く纏まってて観やすくて「初見にも優しい」シーンになっていたように思います。 そういう意味で最もオススメのセンテンスです。 楽しかった人や削られた要素が気にならない方、瀬戸くんの殷氏が楽しい方はもう本当リピチケとか円盤とか買ってたくさん観て下さい。

哪吒のセンテンスの楽曲も1曲も全然思い出せないので、楽曲のインパクトはやっぱり無かったような気もしますけど。

まだ楊戩のこととか武成王造反のところのこととかvs四聖とか書いて残しておきたい気もするので気が向いたら書こうと思います。

かしこ♡

ミュージカル封神演義を観てきた

ぼちぼち追記しております(2019.01.20)

  • このエントリは掲題の作品についてあまり良い印象で書かれていません
  • 千秋楽を観に行く前に少しでも気持ちを整理しておきたくて書きました(観てきたので少し追記しました
  • 書きながら思い出して書いているのでめちゃめちゃ前後してます

先ず言い訳からスタートしますが、この作品を貶めたいわけではないです。
「期待し過ぎていたのではないか」と言われると、私はこの作品の2度のアニメ化を見守って作品ファンとしてそれなりにシナリオ面・構成面で既に辛酸を舐めた方だと思います。
その経験によると「封神演義大河ドラマだから、描くのには十分な時間を要する(時間がたっぷり無いと無理!)」ということを既に知っています。 だからせいぜい2.5h前後の公演時間になるだろうミュージカルという媒体では、 (ましてや登場キャラクターに「天化がいる」ということは)今回も十分な時間は与えらていないだろう事はあまりにも容易に想像ができました。
構成は駆け足になるだろうな、と最初から覚悟はしていました。
アニメの「覇窮封神演義」にラーニング封神演義と最初に言ったヒトは天才だと思います。
ミュージカルのタイトルに「覇窮」が無かったのでミュージカル用に改めて脚本が練られて演出が付くならば「アニメでは削られてしまった封神演義の魅力的な部分が今度こそ表現されるのではないか」程度の期待は多少は抱きました。

一応、キャスト陣への不満は無いです。
既に「一応」なのは一部のキャストのビジュアルに多少の不満はあったので
ただし、ビジュアルの再現はメイクや衣装の監修の問題でキャストのせいではない、というのが私の気持ちです。

主演の橋本祥平さんがご出演されている舞台作品を何度か観劇させて頂きましたが、斉藤一も太鼓鐘貞宗もヤマトもとても素晴らしかったです。
一見すると少年のような可愛らしいお顔立ちでいらっしゃいますが、大変男らしさが溢れており、演技力と合わせて多様なキャラクターを演じられていて、いつも楽しく観劇させて頂いておりました。
円盤で見ただけなのでお恥ずかしいのですが、舞台「KING OF PRISM」での体を張った演技は 舞台を中心に活躍される俳優さんの中でも抜きんでた表現をすることができる度胸のある方と感動致しました。
軽さも重さも表現できる高い身体能力は素晴らしく、舞台に大変映える演技をされる方と思っています。 彼を応援しているファンの方は幸せだろうと思います。
太公望」を演じるのが橋本祥平さんと知った時、もしもこの作品が面白くなかったら橋本祥平さんのファンの申し訳ないと何度も何度も頭を抱えました。
2度もアニメが不評な作品ですし、原作は20年以上前の作品、最新のアニメ化も失敗している、そんな前評判の作品に貴重な時間を割いてしまうことに対する不安は禁じ得ませんでした。
橋本さんの演じる太公望に一切の不満は無かったです。私は見た結果「封神演義」として全く面白くなかったんですが、橋本さんの高い演技力はフルに発揮されているので橋本さんのファンで観に行かれる方は楽しめるんではないでしょうか。そうであって欲しい。
俳優陣各位のファンへの言い訳なんですが、俳優さん達の演技がつまらなかったわけではないんです。 私が楽しめなかったのはこの作品を「封神演義として捕えた」からなんです。出演して下さってことに対する感謝は尽きません。

2.5次元舞台作品でこういった「面白くなかった」という感想を話す際、「解釈違い」「キャラクター崩壊」「演出が悪い」が定番かと思うのですが ミュージカル封神演義はその全てをほぼほぼクリアしていたと思います。
「解釈違い」についてですが封神演義の作者藤崎竜氏の言葉で胸に深く刻まれている言葉が有ります。

「アニメ(1度目)の封神演義はオルト(原作・講談社刊行の安納務版)に対して漫画(集英社藤崎竜版)がメタな封神演義だとするとアニメはメタメタって感じですね」


上手い皮肉ですよね。こういう気持ちで観れば良いんだなと支えられている言葉でもあります。
というか、ミュージカル封神演義はクローズアップすべき箇所が私とは好みや大事に思う箇所が違っただけで「そこに焦点を当てたら確かにそうなる」のような理解は出来るので「解釈が違った」わけではないです。
時間に限りがあるので、シナリオに取捨選択はされていますが「作品の解釈」という点ではミュージカル封神演義は何か決定的におかしいというわけではなかったです。

「キャラクター崩壊」についてですが、各キャラクター、誰も壊されてないと思います。 デザインも含めて、時代背景に寄せていないキャラクターが封神演義の魅力の一つだと思います。 「架空の街ロッポンギに繰り出して飲むぞー!」も「架空」なんて付けない方がより「らしい」と思うほどに。
繰り返しますが基本的にはキャラクターを破壊するようなシナリオや演技ではなかったように思います。 一部キャストによる明確なキャラクター崩壊があったので記しておきます。
瀬戸祐介さんの殷氏です。哪吒の母親を兼ね役して下さっていました。
本当にキャラクター破壊が酷かったんですが、酷くなったのには明確な理由がありますし、 それを許容できない私自身にも多少の落ち度はあります。ただ、自分自身に落ち度があるとしても絶対にここは譲れませんでした。殷氏の振る舞いとして本当に納得ができなかったのです。
それ以外は概ね...黄天化が莫耶の宝剣をマイクに見立てて歌った時は本当に席を立とうかと思いました。 これは一度目のアニメ化の時に突然歌いだした天化が受け入れられなかったことも影響しているんで私自身に限った問題ですね。
楽しかった人や気にならなかった人の方が多いかもしれません。ただ、私は本当に席を立とうか迷ったシーンでした。
これは「キャラクター崩壊」かと言われると違うと思うので「飛影はそんなこと言わない」に近いですね。
妲己のキャラクター表現について「妲己は物理的に他者へ攻撃を仕掛けないのではないか」というのは私の勝手なイメージかもしれませんが、 「楽曲中の演出で申公豹を足蹴にしていた」等の ほんの些細な表現で違和感を感じました(「申公豹」というキャラクターを蹴っていたから余計に変に感じたとも思うんですが)。
妲己に足蹴にされていたのが太公望だけならここまで違和感を抱かなかった、またはミュージカル版の表現として受け入れられた気がします。
ただ、相手が申公豹なことが本当に悪かった。 こういった本当に些細な違和感が積み重なって「妲己はそんな振る舞いは決してしない」と思ってしまうわけです。
キャラクターを表現するにあたって、役者さんの演技で意図的に破壊があったということは無かったように思います。瀬戸くんの殷氏以外。
でも、瀬戸くんの殷氏はシーン表現の為にあえてそのキャラクター表現を採用したと言われたらそれまでなんです。
再現性ゼロのシーン及びキャラクターとして割り切られているとも言えるわけです。 でも、私には無理でした。
特に哪吒を引っ叩いたのが本当に受け入れられなくてもう二度と観たくないシーンNo.1です。
しかしながら全編を通して言えば(「このシーンでこういう表現をされたのは違うのではないか」という違和感は多少あるのですが)、人の身で漫画作品(キャラクター)を演じる上での許容の範囲内かと思います。

「演出」についてですが、演出家の吉谷光太郎さんの演出作品は過去何度か観劇しておりまして、 アンサンブルによるコンテンポラリーダンスのようなモノローグ表現が特徴的で、 アンサンブルさんが兼ね役をされていて、キャスティングの際に名前の無いキャラクターも登場する・舞台上に存在するというところや、OPの全員ダンス・歌唱に華があるという印象です。
ノローグ表現が絶妙で私は「ミュージカル「ハートの国のアリス」」や「超歌劇 幕末ROCK」の大ファンです。
コドリアやめいこいも面白かったです。
長いシナリオ、多様性のあるシナリオを纏めて表現されるのが上手い演出家さんなので封神演義に対して「もしかして今度こそ面白いかもしれない」という期待を持てたのも吉谷さんが演出と伺ったからです。 演出は吉谷さんの得意とするものが如何なく発揮されていたと思います。
曲自体のキャッチーさが物足りないということはありましたが、OPの全員歌唱・ダンスはやはり華がありました。

封神演義には「宝貝」という武器があり、どうしても超自然現象的効果を演出する必要がある武器(時にヒト)が多く登場します。
音と光と小道具(布が多かったですね)を用いて表現されていて、原作の画が浮かんでいる状態で見る分には十分だったと思います。
逆に言うとセグウェイ(かどうかはわからないのですが、哪吒の風火輪)の表現は大変惜しかったです。形状の再現が完璧だったのですが、とにかく動きが遅くて(千秋楽では初日よりも俄然速かった気がします。降りてからの方が動きスピーディーだったのは否めませんが)「迫ってくる哪吒から逃げている」という描写が説得力に欠けました。走った方が速い。ここはビジュアルの再現に極振りした結果、シーン描写としては破綻していたと思います。

封神演義はビジュアルの情報がとても多い作品です。 時代設定と乖離させたコスチュームやアイテムのデザインは封神演義という作品の魅力です。
それがとても難しいんだと思います。
ですがそこは哪吒の風火輪以外は許容範囲でした。津波とかも。
陽森の宝貝はちょっと「諦めたんだな」という感じでしたけど。
演出に明確に不満と言えば終盤のシーンで「聞仲を説得する黄飛虎」のシーンです。
舞台セットの階段上になっているところから転げ落ちるのですが、聞仲の禁鞭を受けたダメージを表現してそうなったのでしょうか。
漫画においてこのシーンで黄飛虎は大きくダメージを受けながらも決して倒れず、太公望に支えられて踏みとどまってます。
この、「体格差が明らかに異なる太公望」に支えられる武成王にはそのダメージの大きさが伺え緊張感が高まります。胸の内を叫び、太公望に支えられたまま聞仲に手を差し伸べます。
なぜ転げ落ちることにしたのか非常に理解に苦しみます。千秋楽では黄飛虎が転げないことを願います。


「それが原因ではない」を先に挙げているせいで「じゃあ何がダメだったのか」という話なのですがここからはそれを書いていきます。
基本的に漫画のストーリーに沿って何がどうダメってことを書きます。
原作の酷いオタクなので。
このミュージカルを観劇した際、本当に私は面白くなくて観劇中も何度も頭を伏せてしまいそうでした。目線が下がってしまうので堪えましたが本当に本当にしんどかったです。疲れました。M1は永遠に続くかと思いました。(千秋楽行ったら割とテンポ良くなってたのでちゃんとM1はここで終わってたんだな、てわかりました。初見の記憶、曖昧でしたな)

何度もtwitterにポストしてしまったのですが、本当にあのクソ長いM1のせいで初っ端から集中できなかったです。
というかM1以外の曲は全く印象に残ってないです。(千秋楽ではテンポアップしてたので)ただ曲中「それはセリフで言った方がいいんでは?」という場面が多かったことは覚えています。
楽曲のインパクトが全編を通して無かった。
クソ長くて単調なM1のせいでM1からOPにスライド(っていうのか?)するのですが(M1→芝居パート→OP、のコントラストがテンポアップによって多少生まれてました)OP曲のインパクトも薄れてしまったように感じます。
せっかく華やかなOPなのに勿体ないですね。
歌詞1㎜も思い出せないけど、思い出せない程度のインパクトということだと思います。

封神演義は殷の時の皇帝・紂王が皇后妲己によって骨抜きにされ衰退するんですが、漫画は国が乱れていることを表現するシーンから始まります。
その時の妲己の象徴的なセリフが 「ばっかね~~ん 米や麦が無いならお菓子を食べればいいのよん」ここはさすがにあります。
演出としてはM1(OPだったかも)の最中だったんですが、もうよく覚えていません、ただ「有った」ことは確かなので備忘です。有ってよかった。象徴的な良いセリフ。

早速なんですが漫画で仙人界の仙人道士についてを説明する際、崑崙の道士がA.T.フィールドを展開してますよね。
これもう本当に損失だと思います。
舞台なら何も言わなくても出来たのに!
なんかそれっぽい小道具でアンサンブルさんが立ってるだけでこっちで勝手に補完したのに!と思うと。
すみません、舞台上のどこかにいたでしょうか。私の見落としだったら千秋楽では絶対に見逃したくないので、「A.T.フィールドを展開してる道士は上手にいます!」とか教えてください。(いなかった)
この「A.T.フィールド」が漫画の封神演義における最初のギャグシーンだと思うんですよね。わかりやすくギャグで物凄く味わい深い。
私は封神演義のこういうテイストを非常に好んでます。
これに対して「そういうのはどうでもいいです」という方はこのエントリの最後にミュージカル封神演義の絶対に観るべきポイントを挙げているので、そこだけ読んで頂ければ十分です。
本当にそこだけは絶対に観てもらいたい。


このミュージカル、白鶴童子がいません。 白鶴童子と言えば太公望を「師叔(スース)」と一番最初に呼ぶキャラクターですね。
「すーす」といえば太公望を指す、くらい封神演義では当たり前の単語ですね。
それを呼ぶ白鶴童子が出ないんですよ。
漫画の第1回に相当する部分における大きな損失だと思いませんか。私には大きな損失でした。
白鶴童子の役割を担っているのは太乙真人なのですが、太乙では言えないんですよね。立場が対等だから。
修行に身が入っていないことに不安を抱く白鶴童子がいないので、それはわざとやっているという太公望を見抜いている原始天尊も欠けてしまうので本当に残念です。いえ、セリフにはなってるんですが、白鶴がいないのでシーンの印象が変わりますね。
「ミュージカル封神演義」にはこういった「些細なことなんだけれど作品の面白さを表現してきたキャラクターやエピソード」が本当に多く欠けています。
限られた時間の中では削るしかない、仕方ないことです。痛いほど理解できます。痛いのは頭と胃です。
(白鶴といえばあの「自信家の楊戩」ととても仲良しですよね(楊戩と白鶴の仲が良さそうなのは後々のエピソードを考えると闇が深い気もしますが)。太公望の下に楊戩がつくことを「それじゃ楊戩がかわいそうです!」というシーンが無くて悲しかったです)
ミュージカルでこの辺りのシーンで太乙真人の出番が非常に多くなるのは必然なのですが(あの出演キャラクターのメンツではね…)、太乙真人って物語の序盤にこんな風に出てくるキャラクターとして適任かというと私には疑問が拭えません。
四不象と同じように、白鶴童子黒点虎、黒麒麟が出ていたらもっと違ったと思うんです。
予算、時間の都合等「仕方ない」は想像に容易ですが仕方ない仕方ない仕方ないで何でも済ませるならもうこれ封神演義である必要ないじゃん!というのが私の素直な気持ちです。国立アンニュイ学園が見たい。
わりとさっさと封神計画の実行者になることを太公望は了承し、霊獣の四不象をもらいます。
光の速さで封神計画の実行者になってた ここで漫画では書き文字で白鶴童子の「いーなー」という羨望が入るんですよね。それがないのは本当に些細なことなんですけど残念なところです。
霊獣に乗っている道士、仙人って本当に少ないんです、フジリュー封神演義では。霊獣を与えられる太公望はやはり特別で重要な任務を受けたんですよね…感慨深い。
でもこの些細だけど意味のあるところは無くなってしまうのに、四不象の見た目の「カバそっくり」はどうしても取り上げるんですよね。いやそれは良いんだけど。
白鶴童子がいない代わりに太乙真人が出ているという話をもう一度蒸し返すんですが、 この「物語序盤に登場し、既にキャラクター紹介された状態の太乙真人」が後で悪い意味で響きます。 なんていうか、太乙真人って初登場シーンが既に面白いキャラクターじゃないですか。それが失われてしまいますし、 登場して紹介が出るまで「恐らくこの後説明されるだろう謎の人物」である点も薄れてしまいました。しかも後々のこのシーンは舞台版のアドリブが多分に入ってしまうので原作で面白かったところは完全に失われてしまいました。
太乙真人といえば「カメラ目線」ですが、あんまり言われてなかったですね。前を向いて話してたかな、正直よく覚えてません。でも覚えてないってことはあんまりクローズアップされてなかったと思います。
別に言わなくてもいいのに「カメラ目線」って書き文字が入るのとか「カメラ目線っスね~」て言われるのが太乙真人の登場シーンの「お楽しみ」の一つじゃないですか、それが無かったのがさびしい。
更に後のシーンですが、白鶴童子がいないので「さっすが科学マニア!」「オタクがいいねぇ、科学オタク」のやり取りがありません。
おもしろいのにね、「マニアじゃない、オタクだ」の主張。太乙真人が好きな人には大切な言葉だと思うんですが、単純に「科学オタクと呼んでくれだからね」みたいになってました。「オタクがいいねぇ、科学オタク」だからいいのに。

もう一つおまけに「科学オタク」の割に太公望の打神鞭を見て「お、それは宝貝か?」みたいにすっとぼけるんですよ。同じすっとぼけるなら「やぁ太公望300年ぶりー(太公望は72歳)」の方が太乙のキャラクター性の紹介としては採用して貰いたかったところです。

この些細な改変の逐一が面白さが失われたところと私は思っています
太公望が朝歌を目指し出発する前から 申公豹がちょろちょろと盗み見してるんですけど、そう、それはそうなんですけど黒点虎がいないので本当にうろちょろしてましたね。
若干、スマートさと不気味さに欠けました。
[どこで見ていたの、聞いていたの]は申公豹の「食えないキャラクター」としての魅力だと思うんですが幾分可愛らしいものになってました。
可愛いし表現としては納得できるのですが、それは「妥協点にうまく着地できていた」という話です。
申公豹は盗み見して面白いなと思ったら首つっこんだり口出したりを出してて見た目がピエロなのも相まってコメディにもホラーにも動けるというこの作品で最も自由なキャラクターなのですが、申公豹が自由さは「一番強いから」という非常に単純明快な理由なんですよね。
申公豹って基本的に強すぎて誰とも戦わないので、「ラスボスの妲己が敵に回したくないと思ってる」ことで強さを表現している側面があると思うんです。 先にも書きましたけどこのミュージカルでは妲己が妙に申公豹をおちょくったような動きをするんですよ。足蹴にしたりしてて。
それが本当に、表現上の「面白さ」なのかもしれないんですけど、違和感が凄かったです。
漫画の中で妲己自身が手を出している(殴る・蹴る)描写ってほとんど無いと思うんです。ていうか1つでもあったか?
伯邑考をハンバーグにする時もシルエットで包丁を持っていることが示されているんですが妲己が包丁でどうこうしている場面は描かれていないんです。妲己は申公豹だけには常に(その強さに)敬意と畏怖を強く表現するべきだったと思います。それを考えたら足蹴にしたりはしないと思うんです。
ミュージカルの申公豹ですが、とっても上手だったと思います。
身体能力も表現力も高い大平峻也さんは申公豹に適任だったと思います。独特の声もキャラクター性に合っていたと思います。
首に雷光鞭をひっかけていたのだけ集中力を削がれましたけど。本を片手にすることはするのにね、って。千秋楽では首にひっかけてなかった!!!!!!
本を持つことよりも雷光鞭持つことの方を優先してほしかったですね。首から提げてるのも鞭の部分を掛けているので両手が空くようにスマートに処理しているといえばそうなんですけど。

ミュージカル封神演義の歌唱パートには小道具の「本」が登場します。本を片手に歌っているんですが、私には「封神演義」にその本の必要性はわかりませんでした。必要性がわからないアイテムの存在に非常に集中力を削がれてしまいました。集中力無さ過ぎ、とdisってくれるな

M1の最中だったと思うんですけど(OP中でしたね)、火竜鏢を太公望が手に入れました。とても嬉しかったです。今倒したの陳桐だよね!と気持ちがアガりました。陳桐って最初に封神されたキャラクターなんですがこの陳桐を倒すことは後々のエピソードにとても影響するのです。キーパーソンと言って過言ではないでしょう、本当は。
そう、「本当は」、、、残念ながらそこは殆ど削られてしまったんですけどね。でも火竜鏢を手に入れた描写が明示的でよかったです。アニメでは無かったからね。
丸ごと無くて悲しかったことの話といえば、 太公望がおなかを空かせて道端の草を食べる、とか朝歌(城下町)で薬屋を営んでいたおじさんに「申し訳ないが・・」とされるあのシーン丸ごとありません。 私はこのシーン、朝歌の現状を語るにとても重要なシーンだと思うんです。
太公望は確かに一族が人狩りにあって全てを失うんですが、 太公望ってその怨恨だけで「殷王朝を終わらせなければならない」と思ってはいないんですよね。
この時点では「妲己を倒せば万事解決だ」としていて「諸悪を断てば元の賢王に戻る」、「戦争でヒトが死ぬことを極力避けようとする」が伺い知れて太公望のキャラクター性と魅力を語るのに必要なエピソードだと思います。削られてしまったけど。
「糖衣か甘いシロップでなければ飲まぬ」もコメディシーンの中では私は大好きです。削られてしまったけど。
太公望の敵は妲己であって「殷を終わらせて周を立てなければいけない」はこの時点では太公望の目的ではないのです。
でもこの朝歌の現状を目の当たりにすることでその後、その必然にすんなりと移行できるんです。漫画でこの時点では思わなかったけど、後々の話とは自然につながる、伏線というよりは印象の刷り込みですかね。
陳桐エピソードに戻りますが、「奴隷狩りに合うはずだった辺境の村の人たちが(太公望によって)酔いつぶれていたことで抵抗なく捕まった(怪我しなかった)」は太公望による「この漫画は頭脳戦である」ことを印象付けていく本当に良いエピソードですね。丸ごと無かったけど。
こういうのが削られてるんです。封神演義って本当に削るエピソードなんて一つもないんです。 結果、「封神演義の面白さ」である部分がどんどんなくなってしまって「ミュージカルはつまらなかった」に着地するんです。

陳桐がいないことから芋づる式に削られたエピソードが王貴人です。
王貴人を太公望に嗾けるのは申公豹ですが「陳桐が倒されたこと」が引き金になるんですよね(陳桐って別にただのザコじゃなかったんですよ!)

王貴人はなんていうかキャンキャン吠えるせいで雑魚っぽく見えるけど太公望へ挑む姿勢は崩さないのが可愛らしいキャラクターでなぜ削られてしまうのか本当に悲しいんですがアニメでも丸っと削られてましたね。彼女をもっと大事に扱って欲しい。
王貴人は太公望に倒されてしまうし捕虜になってしまう、なんというか妲己にとってわりと足を引っ張るキャラクターなんですが、妲己は王貴人を見捨てないんですよ。妲己は極悪非道なんですがとても妹想いなんですよね。 妲己のキャラクター性の一つである「妹想い」を描くキャラクターとして王貴人は失いたくない存在でした。ミュージカルでは石琵琶(王貴人)はただのアイテムだったけど。

「おうきじん」って名前すらでてこねぇの〜〜〜〜〜〜!!!

王貴人は朝歌で占いを営む太公望の前に現れます。ここで封神演義でもここだけでしか登場しないのに読者の脳裏にやたら強くこびりつくことになる「いわし占い」が登場しますね。ミュージカルには登場しません。
薪売りが登場するエピソードでもありますね。この薪売りは「仙人は年をとらない(時間の流れが非常にゆっくり)」という世界観で再登場の際、「老けて」いたキャラクターなんですよね。
時間の経過がわかりにくい封神演義の世界の中でこの薪売りは重要な時間経過を表現する存在だったと思います。ミュージカルにもアニメにも出てこなかったけど。

ここまでM1~OPですかね(もう少しありましたな。)削られたエピソードの話してたら疲れちゃってミュージカルとしての話があんまり出来なかった。
先にも書いた通り、OPは全キャラクターによる歌唱です。ダンスもある。吉谷さんの演出では定番の手法ではないでしょうか。
今回はM1からの流れでコントラストが曖昧でキャッチーさに欠けましたがこのOP演出自体は私は以前から好きでした。
舞台の上手と下手に武成王と聞仲がそれぞれいますが、もう!本当に!超モタモタ踊っていて必見です!超面白い!全観客に観て欲しい!最高!モタモタっていう表現してますけど褒めてます!絶対見て!でも円盤では臨場感失われるから観なくていいよ!現場で見て!

千秋楽で見たら前列は人数が多くて狭くてダンスが全員小振りでしたね。特に楊戩が狭そうでした。



禁城でのエピソードというと、武成王との出会いや妲己との初めての対峙、蠆盆ですね。 ミュージカル封神演義におけるこの辺のエピソードのことをここからは書いていきます。
王貴人(捕虜)を手に入れた太公望はそれをネタに妲己を倒しに禁城へ潜入します。
この時、太公望は殷の将軍武成王と出会います。ミュージカルでは出会いません。
ここでの出会いは敵の本拠地に潜入した太公望がその親玉を倒しに来たとキッパリと言うところが最高です。
そしてそれに太公望という人物の将来性・可能性を見出して武成王は何かあったら自分を頼れ、という出会いがあるんです。ミュージカルでは無かったけど。
武成王は殷の将軍で彼もやはり「妲己が敵」なんです。殷を滅ぼしたいと思っているわけではない。
殷の軍事最高責任者なので自由はあるけど、殷の将軍であるが故に自由ではない葛藤が序盤の彼の魅力の一つですね。
武成王と太公望との出会いは本当に、ちゃんと描いて欲しかったんですがここもバッサリと削られてしまいました。
武成王が太公望を助けてくれる部分だけはいつもちゃんと残るんですけど、 そこだけ残ると「武成王って殷の将軍なのに見る目が無い」ともなってしまうんですよね。これはアニメでもミュージカルでもそうでした。
原作を読んでいて、武成王と太公望の出会いが記憶で補完されてればまだ印象が変わりますが、そもそも事前の予習を必然とするエンタメって私は未完成品を見せられているような気分になるので好きじゃないです。

太公望が初めて妲己と対面するシーン、妲己は王貴人が太公望に捕えられてることに少なからず焦っているのですが、ミュージカルではその「焦り」に滑稽さの色が強かったですね。個人的な妲己の印象でいうと妲己太公望以上の策士なので紂王がいる目の前で石琵琶に対して「妾のいもっ…」なんて言い出さないと思うんですが。
漫画でも妲己の「待って!」にはいつになく表情に余裕が無いのですがこれが笑いのシーンになるかというとどちらかというとヒヤヒヤするシーンだったので笑いのシーンになっていて些細なことですが違和感がありました。
ここで原作と同じく太公望は「宮廷音楽家」を志願するんですが、太公望が宮廷音楽家になった際に品性ゼロ!と言い放つ音楽家のおば様も「エスケープしました」とさらっという彼も削られてしまいました。悲しい。
この「エスケープしました」の彼、封神演義の面白さが詰まってますよね。エスケープという単語を使ってくる古代中国のモブがナチュラルに差し込まれる封神演義が大好きです。
さておき、そんな彼はいません。ついでに言うと禁城で行われる朝礼みたいなのは時間の都合でしょうか、ばっさり削られて存在しません。
妲己の誘惑(テンプテーション)の正体は傾城元嬢でその香りを嗅ぐとー、という説明が入るところですね。
術じゃなくて宝貝の力(その凄い宝貝を使いこなす妲己はもちろん凄いのですが)という説明が欠けますね
どっかで補完されてたような気がするので記憶違いだったらすみません
禁城内で妲己の隙を探す太公望ですが、妲己はものすごく強いので「隙だらけなのに隙が無い」状態に太公望は焦燥を見せ、追い込まれます。
このシーンの妲己、ものすごく余裕があって怖いんです。妲己が言うように所詮「太公望なんて取るに足らない微生物」なんですよね。
太公望ちゃんと遊ぶのも飽きちゃった」のセリフもこの後に続く「遊びましょ」のセリフの威圧感(プレッシャー)が物凄く強いんですけど ミュージカルでは弱めでしたね。なんか連続のシーン中の、流れの一つのセリフ程度になってて。もっとただただ怖くて良かったのに、と少し残念に思いました。
この「妲己が仕掛けてくる瞬間」は太公望が神経をすり減らして待っていた重要な場面なんです、本当は。ミュージカルでは連続の中の一つだったけど。
ここから非常にがっかりしたシーン改変になるのですが、この「太公望へ仕掛けに行った妲己は影武者」でこの話終わってしまうんです。
違うんです!ここで仕掛けてきた妲己はあくまで「本物の妲己」なんです。胡喜媚(妲己の妹)との入れ替わりが起きているのですがそれに気が付かず紂王誘拐に失敗した太公望は一度退却します。
退却した太公望は戻るんです、自分が生き埋めにしてしまった妲己の影武者を助けるために。
ここに、太公望の「無関係な人を巻き込みたくない」という心情と禁城での太公望の作戦の完全なる失敗、妲己の勝利が詰め込まれたシーンだと思いますが台無しです。太公望がただ、考えが足りなかっただけのシーンになってしまっていて本当に酷い改変になっています。
ここはアニメでも同じだったような気がします。胡喜媚がいないことがどうしてもそうなってしまうんでしょうね。

さてやっと蠆盆ですね。そういえば炮烙については丸ごと削られています。
炮烙を作る時の妲己ちゃんの「妾は図工が得意ですのん」に妲己ちゃんの残虐性が滲んでて 重要なところだと私は思うんですがミュージカルには採用してもらえませんでした。本当に悲しい。

蠆盆のエピソードは太公望にとって大きなトラウマを植え付けるシーンですね。
太公望の失敗のせいでヒトが無残に無為にたくさん死にました。
ミュージカルではこのシーン、アンサンブルさんが活きていましたね。兼ね役をうまく操る吉谷さんの演出の醍醐味だったように思います。
このシーンで「老いた妻と息子が」って命乞い(?)する人がいるんですが、この人は武吉のお父さんとして登場していたようです。
(ただ考えてみたらこのシーンで武吉の父が死ぬのっておかしいんですよね。蠆盆に落とされたのは「奴隷に使っていた羌族」なので、仕事で朝歌に来ていた武吉の父が蠆盆に落とされるエピソードをここで挿入するのは少し雑な印象です。
父です、と明言してないからこの人は武吉のお父さんのように見えるように設計されているだけかもしれませんけど。

蠆盆のエピソードで太公望は絶望してしまうのですが、ドサクサに紛れて武成王に助けられます。 原作では「ありがとう武成王~~~~~~~~~~~」と感謝の止まらないところですがミュージカルではここで初めまして武成王。
妲己に単身挑んで沢山の羌族を殺すことになったダメダメの太公望に何か将来性を感じたらしい武成王...あの状況と結果で?この太公望に?
この武成王はそりゃ造反しますわ。って感じですね。なんていうか殷に対する忠義がもともと無いんだな、って。
ついでに妲己の誘惑にかかった四不象は原作の通り申公豹が助けてくれます。
申公豹の「あなたには失望しました」ですがそりゃそうだよね、って感じです。ガッカリだよね。なのにまだ期待してくれるなんて優しいな申公豹。

ここまでで一幕の1/3くらいでしょうか。

初日の初見で私がガッカリした部分がこれだけあるのでつまらなかった、という感想も信じて貰いたいところです。
上記した「削られた箇所」が気にならないという方はミュージカル封神演義楽しめるかもしれません。#でもこれまだ1幕の1/3くらいだからね。
この辺はアニメの「覇窮 封神演義」でも似たような感じで削られていたので私がアニメを見ていた時に如何ほど絶望していたか、は今更な話ですね。
ちょっと疲れてしまったんで気が向いたら追記します。
この後続く話としては 哪吒エピソードへの不満、太乙真人の宝貝オタクの崩壊、楊戩のテストでのセクシーふくらはぎ攻撃について、武成王造反、vs九竜島の四聖についてです。

千秋楽を改めて観劇してきたのですが、やはりこの後の哪吒のエピソードの纏め方、テンポは非常に良くてとても観やすかったです。瀬戸くんの殷氏への不快指数が高過ぎるのですが、それは別のブログに分けたので「何が」という話はそちらで書きました。
楊戩のエピソードですが、ここもシナリオ面ではうまく編集されているというか、エピソードとしての違和感はありません、ストレスフリーでした。ただ、何故かとても物足りない印象を受けていてどうしてこのセンテンスは面白くないんだろうと考えていたのですがシナリオの編集によって「楊戩が優秀でいい人」に落ち着いているんですよね。 全く間違ってないんですが、この時点の楊戩って本当に「優秀故に嫌味に聞こえるところがある」中間管理職トネガワにおける佐衛門三郎みたいな所があったんですがそこが欠けているんですね。「仙人界目線です」とは言っているんですが、原作で楊戩が太公望に見せていた無礼さというよりは言葉遊びの可愛らしさの方に寄っていたように感じました。 ミュージカル封神演義の楊戩ってすごくカッコイイんですよ、最初から最後まで。この楊戩の下なら働きたいって人もたくさんいると思うよ、元始天尊…。 楊戩が太公望の本気を引き出すために四不象に哮天犬をけしかけて人質にとる(手加減はしているけど、手加減してること太公望は知らないからね)ところが欠けると楊戩の話には筋が通るというか「太公望の本気の実力を知るために体を張る楊戩」になるんですね。カッコイイけどこのシーン、本当はもう少し楊戩が卑怯です。 でもこの編集は「妥当」としか言い様が無いです。 毒っ気が抜けた楊戩って本当にかっこいいヒーローですね。

思い出せる内に先に書いておくんですが、vs九竜島の四世の李興覇vs哪吒のシーンで哪吒に「考えて戦うこと」を間接的に伝える太乙真人のシーンで一つ目の太乙風船が破裂した時、原作で哪吒は「ビクツ!!」と非常に動揺するんですよね、「あ」て。ここのシーン、場面としてこの哪吒に説明は全くされないけど実に胸に響くシーンなのですがミュージカルでは…私が見落としてるだけかもしれないのですが描かれていなかったような気がします。太乙の風船は物凄く原作ビジュアルに忠実になのに。なんというか「重要なのはそっちでは無いんでは?」とつい思ってしまいました。

まだ書くかもしれないですが、大概「あれがない」「これがない」「この要素が無いからつまらなかった」という話がメインなのでもう書かないかもしれません。

最後に、 ミュージカル封神演義において2.5次元作品として価値が極めて高かったシーンを書くので観劇のご予定がある方は是非注目して頂きたいです。
生で観てこそ真価だと思うシーンなので円盤とか配信とかヌルいことを言わず、劇場で体感して頂きたいです。

♪へべれけへべれけうたいます~♪はまぐりはまぐりのみまくり〜

これは酒池肉林パーティを開催した際、酒を飲む紂王への妲己のコールです。漫画の中の小さなコマの書き文字です。 ついでに、ここでは「いっき!いっき!いっき!」のコールに「だっき!だっき!だっき!」と韻を踏んだ合いの手が入りますが本当に最高でした。
非常識な宴会であることが表現されていましたし、なにより「文字」という情報でしかなかった♪へべれけへべれけ~にメロディがついていることに感動しました。
この感動はWS版で胡喜媚の♪ズンチャラッカホイホーイホヒホヒにメロディが付いた時の感動と同じです。
こんなに時が経ってあの感動を再び味わえるとは思いませんでした。本当に嬉しかった。
この意味の分からないコール、封神演義の面白さって感じです。本当に胸が熱くなりました。2.5次元にした意味があるシーンです。

姫昌が武吉によって轢かれるシーン

天然道士の武吉は「普通の人間として規格外である」ということがものすごくよく表現されていました。
武吉に轢かれた姫昌が倒れるのは漫画だと如何ほどの威力か判断するのが今思えば難しいですね。当時は周公旦に狭量だなと思っていました。違った。武吉に轢かれたら死ぬかもしれない。そりゃ死刑にもなるわ。凄く説得力がありました。2.5次元になったことによって、改めてより深く原作を知ることができました。陣内くんの最高の芝居でした。
人の身をもって漫画を表現することの意味が目の前に輝いて見えて思わず立ち上がってしまいそうでした。こういうのスタオベっていうんだなって感じです。 このシーンがもう一度見れると思うと千秋楽の観劇が楽しみで仕方ないです。
いつから変わってたのかわかりませんが、千秋楽では転がった姫昌はブレイクダンスのスワイプス(?)決めてました。このシーンの中でとても感動した漫画を読んでいた時の体感は失われてしまいました。非常に残念でなりません。元気いっぱいじゃん、姫昌。武吉のこと死刑にするほどの衝突事故か?という印象です。なんというかここはコメディのシーンだったのですね。勝手に価値があると思い込んでいましたが無価値でした。このシーンを指して後々のシーンで天化が「あんな動けるジジイ、そうそういねぇさ」と言うんですが西伯侯 をジジイって呼ぶのは頂けないですな、いくらヤンチャな天化でも。そういう子だったっけ?あのシーンのせいでこんなこと言う羽目になってる、という印象です

「意味のあるアドリブ」については武吉の耳が物凄く良いって流れで「僕、ニコ生を見ている人たちの声も聞こえるんです!」これは千秋楽(と前楽)がニコ生放送されていることに繋がっていて「意味がある」アドリブです。こういうのは本当に軽妙です。最高。スタオベしちゃいそう。おい聞いてるか陣内将。

私個人の思い入れですが、「意味のないアドリブ」は非常に不愉快です。上記の姫昌もそうですが、天化が聞いた太公望の噂からの人物像のシーン、千秋楽では陣内将さんによる橋本翔平さんの舞台上でのお遊びについて語っていて、それが面白ければ(話の筋とのマッチングが良ければ)全然構わないのですが千秋楽では橋本翔平さんも拾いきれておらず「内輪ネタ」に着地していてココでこの全く面白くない話をうふふと笑ってやれる気概がなくて申し訳なかったです。本当に全然面白くありませんでした。
ミュージカルで良かった点もう一つ書いておきます。 「伯邑考ハンバーグ事件」を割とサラッと流したことですね。
その結果、姫家の家宝紹介という封神演義の中でも屈指の面白シーン・セリフである 「押したり引いたりする必要が無くしかもオートマです」は失われてしまいましたがイーブンだと思います。「ここが無いからここもない」で唯一溜飲の下がるポイントでした。

クソ長い感想というか備忘になってしまったんですけど結論としては

「原作(フジリュー版の漫画の封神演義)の面白い要素が削られていたので面白くなかった」です。

かしこ♡